―――――強くおなりなさい 懐かしい声が聞こえる。 胸が、一杯になる。 ゆらゆらと柔らかく漂う、炉端の炎。 夕餉の暖かな匂い。 麻の敷き布。 柔らかな膝。 泣きたくなるほど、優しい声が聞こえる。 ―――――どんなに辛いことがあっても、ぜったいに、負けてはだめ そっと額を撫でられた。 気持ちよくて、そっと目を閉じる。 ―――――だいじょうぶ。だってあなたは、ははうえの子だもの けれど次の瞬間には、その柔らかな膝の感触も、額を撫でていた掌も、懐かしい炉端も、すべてが闇に消え失せた。 ははうえ…? 幼い少年は、心細げに辺りを見回した。 すると、遠くの方にぽつんと誰かが立っているのが見えた。 ははうえ… 少年は、走り出す。 しかし少しずつ差は縮まるものの、向こうに佇む人影へは一向に近づけない。 人影の鮮やかな色合いの着物が、ひらひらと踊る。 ふと鼻孔を擽るのは、この世のものとは思えないほどの、甘く芳しい香り。 幼い少年は手を伸ばすが、届かない。 ははうえ? ほんの少し期待をこめて呼びかけるが、返事はない。 だがさざ波のような小さな笑い声が、微かに耳に届いた。 …? だがやはり返答はない。 風に乗って運ばれてくる薫物の香りと、甘やかな笑い声に、少年はいつの間にか止まっていた足を、再び動かしていた。 だが今度は、同時に女の背中も遠ざかる。 まって。まって、 懸命に呼びかけるが、女は立ち止まらない。 だがやがて、不意にぴたりと彼女の足が止まった。 少年は近づく。 そしてようやく、その手が女の着物に触れようとしたとき。 ――――あなたも、『そう』、なのね? 振り返った女は、顔が見えなかった。 顔は見えなかったのに、嫣然と微笑んでいるのだけは、何故か分かった。 □■□ 「――――…っ、…お、葉王!」 「……………?」 ぼんやりと視界に入る、おぼろげな影を見つめる。 最初それはただの影でしかなかったが、徐々に徐々に、輪郭が鮮明になっていく。 やがて、が自分の顔を覗き込んでいることに気付いて、葉王は飛び起きた。 「な、な………どうして」 「ごめんなさい、勝手に入ってしまって。…貴方の部屋の前を通りかかったら、魘されていたようだったから」 大丈夫? とその白い指先が、額に張り付いた髪をそっと除けてくれる。 その手つきに、思わず夢の中の母を重ね―――ようやく葉王は自分が汗をかいていたことを知った。 「…魘されていた? 僕が…?」 「そうよ」 ―――そんなに嫌な夢だったようには、思えないのだけど。 むしろ、何故だか胸には、何かを残念がるような―――取り残されたような、そんな思いが残っていて。 夢の中の幼い自分は、強烈に惹かれていた。あの女の背中に。 (…何が、残念なのだろう) ふと、それを見ていたの眉根がぴくりと動いた。 「…どうかしたのか」 「………ううん。何でも、ないわ」 葉王が問いかけると、は首を横に振って答えた。 そして、長居は無用とばかりに立ち上がると、 「勝手に部屋へ入って、ごめんなさい。失礼致します」 と残して、部屋を出て行こうとする。 そこへ、 「あ、」 「……?」 慌てて呼び止めた葉王に、が不思議そうに振り返った。 首をかしげた拍子に、羽織った袿に髪がさらりと流れる。 「ありがとう」 葉王の言葉に、一瞬だけ目を丸くしただったが。 「………おやすみなさい」 少しだけ安心したように微笑むと、静かに部屋を出て行った。 葉王はそっと息をつくと、また横になって目を閉じた。 たぶん、もう先ほどの夢は見ないだろう。そんな気がして。 まだ夜は、長い。 「―――……」 庭に面した廊下に出たは、しばらくそこで立ち止まって、鼻をぴくりと動かした。 何かを思案するように、じっと辛抱強く。 だが、目当てのものは感じ取れなかったらしく、ふ、と息を吐く。 (………甘い匂いが、したと思ったのだけど) 葉王から、一瞬だけ。 だがそれもすぐに消えてしまって、あの部屋ではもう嗅ぎ取れなかった。 まるで―――まるで、逃げるように。 気のせいだろうか? でも。 何故だか、気になる。 彼は気付いていないようだった。 葉王の香りではない。 貴族の女性がつける、薫物の香りのようだった。 だが葉王が誰か女のところへ通っている様子など、ここ数日では見受けられなかった。 (何なのだろう) 何となく、不吉な予感がざわりと胸に忍び寄ってきた。 は夜空を仰ぐ。 葉王の邸へ来てから、早数週間―――。 そろそろ生活にも慣れてきた頃だ。 は無駄と知りつつ、注意深く辺りを見回しながら、割り当てられた部屋へと歩を進めた。 何だろう。 何かが、起こる―――? □■□ 翌朝、朱雀門をくぐった葉王は、何となく周囲がざわついているのを肌で感じた。 はっきりと分かるわけではないが、それでも、何か浮き足立った、そわそわと落ち着かない雰囲気だ。 「―――何かあったのか」 葉王は近くにいた雑色に尋ねてみた。 すると、 「何だか鬼を見たとかで」 「鬼? 大内裏でか」 「はい。私はまだ一度も見ていないのですが……見たという者が何人かおりまして」 何かわかりますか、と雑色が尋ねてくる。 だが葉王はしばし黙って考え込んだあと、再度尋ねた。 「どんな鬼だった」 「さあ、私も詳しくは……あ、でも、何やら髪の長い女のような姿をしていたそうです。それで―――誰かを探しているようだった、と」 「誰かを…?」 「はい」 葉王はその気配を探るように、ジッと周囲に神経を集中する。 (特に何もいない………でも) もし、何かがいたのだとしても。 それを今先陣を切って葉王が声高に叫んでしまえば、また同業の、つまりは主に兄弟子たちが良い顔をしない。 それが容易に想像できたから、不用意なことは言わないよう心に決めた。 適当にその雑色を下がらせた後、ふとそういえば、今朝はの顔色が余りよくなかったのを思い出した。 ようやく慣れてきた手つきで、葉王の支度を手伝いながら。 見送るときも。 『――――きをつけて』 あの時、彼女は頻りに、何かを案じているようだった。 何をそんなに、気にしていたのだろう。 「――――――……あれ?」 不意に、葉王は立ち止まった。思わず、声が出てしまう。 偶然近くにいた役人が怪訝そうに振り返ったので、葉王は慌てて素知らぬ顔で歩き始めたが――― どくん、と心臓が大きく鳴る。 そうだ。 どうして気付かなかったのだろう。 が、彼女が自分の傍にいるようになってから ―――『声』が、消えた。 それは例えばただの独り言であったり 募る想いであったり 誰かへの呪詛であったり 形はさまざまではあったが、どれにしても凡そ普通の人には感知できぬ筈のその声。 あれだけ、あんなにもうるさく、絶え間なく怒涛のように流れ込み、がんがんと響いていたのに――― が、ここへ来てから。 何故かぱたりとそれは止んでしまった。 耳を澄ませ、神経を集中させても、聞こえてくるのは風の音。もしくは遠くの喧騒。 だから相手の気持ちがわからない。 ……の考えが読めなかったのはその為だ。 (……何故…?) 心の中で、だれでもなく、強いて言うならば―――ずっと昔、この力をくれた友人だった彼へ問いかける。 もう友人ではない。…少なくとも、きっと向こうはそう思っているはず。 だがやはり、返答などなく。 葉王は遠くにそびえる山々に目を移した。 急に自分を囲っていた壁が取り払われたような気がして―――たった一人、無防備になってしまったような、気がした。 ――――だいじょうぶよ 「…!」 ふと何かを感じて、葉王は弾かれたように視線を辺りに走らせた。 ふわり。 何だろう、これは。 甘い、匂い―――? 唐突に纏わりついてきた強い香りに、葉王の脳裏には今朝の夢の内容がよみがえる。 そしてさきほど、雑色から聞いた女の鬼の話を思い出す。 まさか… 「………っ!」 視界の横を、見覚えのある鮮やかな衣の裾が横切った。 慌ててそちらへ目を走らせて見れば、するすると曲がり角の向こうへ、裾が消えていくところだった。 ぴり、と肌が震える。 わかる。あれは―――うつしよにあってはならないモノ。 葉王はその衣を追った。 (何故、先ほどは気付かなかったのだろう…) 宮中に鬼が出ることそれ自体は、別に珍しいことではない。あってはならぬことではあるけれど。 それでも、人が集まる所にはそれだけ、負の感情が飛び交う。澱のように溜まった闇は、そこかしこに在るのだ。 ましてや個々人の策略や野望が渦巻く京の中心、吹き溜まりにならぬ訳がない。 問題は、今こうしてすぐ傍にいたというのに、殆ど葉王が気付けなかったということだ。 (力が衰えている…?) 否、そんな筈はない。 衰えたと言う感覚は、ない。 ならばどうして。 くすくすくす くすくすくす 笑い声と、絡みつくような甘い香り。 気付けば、大内裏の中心部までやって来ていた。 ざわりざわりと松の木が揺れる。もう太陽は昇っている時間帯なのに、薄暗い。 (宴松原…) この松林はもともと、変な噂の絶えない場所ではあった。 辺りは不気味に静まっている。 いつの間にか、あの笑い声も聞こえない。 「………」 葉王はじっと目を凝らした。 『彼女』は、そこに、居る。 「……今朝、僕の夢に出てきたのも、そなたなのか」 無駄とは知りつつ、尋ねてみる。 その瞬間。 ――――――見 ィ ツ ケ タ 葉王の背筋を、悪寒がぞわりと這いずった。 肌が痛いほど、辺りの温度が下がっている。 単なる寒さだけではない。 既に甘い匂いは、噎せ返るほど辺りに充満している。そして―――確かな、狂気。 葉王の顔が引き締まった。 すう 一度肺の中から空気を全て吐き出して、新たに息を吸う。 そして。 一瞬の沈黙の後、凛とした声が響き渡った。 「臨兵闘者皆陣烈在前」 周囲に、ぴんと静かな緊張が走った。 唱えながら手刀で九字を切り、次いで印を結ぶ。 「ノウマク サマンダ バザラダン―――」 □■□ 「っ、つ…」 キン、と耳鳴りがしては思わず頭に手をやった。 一瞬だけ、脳裏に飛び交う映像。 「……、は、お…?」 うわ言のように呟く。 何だろう。 この、焦燥感。 急かされている。 焦点の合わない目で、じっと目の前の壁を見つめる。 動悸が激しい。胸が、痛い。 これ、この感覚は――― 「カミサマ……?」 あなたが見せているの? しかし、当然の如く返事はない。 ただ、鼓動の音だけが大きくなっていく。 「……っ…」 何が起こっているのかは、わからない。 だけどこれだけは。 (葉王が、危ない) は邸を飛び出した。 その頃、既に大内裏内でも異変が起こっていた。 「…っ、う、ぐ…」 こみ上げる猛烈な吐き気に、布勢は口を押さえた。 周りでも、誰もが顔を苦悶にゆがめ、その場にうずくまっている。 実際に、堪らず吐いている者もいた。 (なんだ、この瘴気…) その異常な程の気配に、布勢は屋根の向こうに見える松の木に目をやった。 あそこから、感じる。 どろりと濁った、禍々しい気配。 「くそ、嫌な予感しかしない…!」 朝、出没するという女の鬼の噂を聞いたばかりだった。 まさかそれと何か関係があるのだろうか。 「――――布勢!」 「…!?」 決して聞こえる筈の無い声が聞こえ、布勢が辺りを見回すと、朱雀門の辺りから駆けてくる姿が見えた。 「おま、どうしてここに…」 「みんな倒れてたから、ココへ入るのも、誰にも咎められなかっ、た…」 「おい、顔が真っ青だぞ」 瘴気によるものだろうか。 慌てて布勢が支えようとすると、しかしその小さな肩はそれを拒んだ。 「大丈夫。は、だいじょうぶよ。大丈夫じゃないのはじゃないの。大丈夫じゃないのは」 が堪えきれなくなったように叫んだ。 見たことも無いほど―――必死の形相で。 「葉王は…葉王はどこにいるの!」 「葉王…? あいつが何か関係してるのか」 「わからない。わからないわ、はっきりしたことは言えないの。…でも、でも葉王が危ないの」 ひどく取り乱している。顔色が悪いのも、その為らしい。 その鬼気迫る口調に、流石に布勢も口をつぐんだ。 同時に、彼女の着物の裾が真っ黒に汚れているのに気付く。 つまりはそれだけ―――脇目もふらず、走ってきたのだろう。 あの、歩きにくいと言っていた装束なのにも関わらず。 「葉王はどこにいるの」 「わからない……でも、この異変の中心は、おそらくあそこだ」 屋根の向こうに見える松の木を指差す。 もそちらに目を向け、目に見えて顔を歪めた。 布勢は言う。 「…一緒に行こう。出来るだけ俺の後ろにいろよ。でないとお前さんみたいなちっこい奴、すぐに立てなくなっちまうぞ」 『――――――!』 巨大な力が押し返してくる。 耳の奥で、誰かの声が木霊している。 さっきから、ずっと。 この鬼に対峙してから、ずっとだ。 「……っ」 どくん 葉王も、あらん限りの力を持ってそれに抗う。 負けては、だめだ。 負けては呑まれてしまう。 ほどけそうになる印を、必死で結びなおす。 どうしてだろう。 やりづらい。思うように、集中力が続かない。 だがそれが途切れるということは、即ち死ぬと言うこと。意識は、手放せない。 なのにどうして、 『――――のっ!』 どくん (駄目だ) 耳を貸しては、駄目だ。 余計なことに、気を取られては。 そう強く心に刻み込む。 その時。 見覚えのある人影がふたつ、視界の端に映った。 (………!?) きてはいけない。あぶない。 一瞬だけ、注意がそれる。 その隙を―――相手は見逃さなかった。 『化け物っ!』 どくん。 ひときわ大きな鼓動が聞こえて。 ――――あなたも、『そう』、なのね? また、あの声がした。 涼やかで、高く、甘い甘い声。 凄絶な笑みを湛えて。 (あ――――) その瞬間。 意識が、呑まれた。 『化け物、化け物!』 『こっちへ寄るな』 これは―――きみの記憶なのか。 きみの、最期の。 殴られた。 蹴られた。 捨てられた。 痛い痛い痛い苦しい辛い悲しい寂しい寂しい憎い憎い憎い憎い死んでしまえ どくん 心が、暴かれる。 『さっさと正体出せよ』『狐の子』『家ごと焼き払ってしまえ』『一人で闇と話す者』『さよなら人間』『さあここがお前の家だ』『まったく物好きな』『気持ちが悪い』『賢しき子だ』『精精利用させて貰おう』『食われるぞ』『狐が母』『人でなし』『鬼の子』『鬼の』『鬼』『鬼』『鬼』『鬼』 どく、ん。 葉王は悲鳴を上げた。 ぐしゃ。ぼり。ばきん。 最初は、奇妙な音だった。 それを聞いた布勢とは、怪訝そうに視線を巡らす。 やがて目に留まったのは―――ひとりの役人の男。 の動きが止まった。 隣で、息を呑む音が聞こえる。 男本人も理解できなかったに違いない。 不思議そうな顔のまま―――彼のわき腹は、綺麗になくなっていた。 口の周りを真っ赤にした鬼と、目が合う。 役人の目が大きく開かれた。 その口から悲鳴が―――あがる前に、その喉笛に鬼が食らいつく。 びしゃ。 地面に真っ赤な水溜まりが出来た。 一瞬の沈黙ののち。 「う―――うわああああああ!」 つんざくような悲鳴が、たちの背後から響いた。 振り向いてみれば、彼もまた偶然居合わせてしまったのだろう、別の男が腰を抜かしていた。 がくがくとそのこわばった足を動かし、男は無理やり逃げようとする。 だがその背に、また別の鬼が襲い掛かった。 悲鳴が上がる。 悲鳴が濁って途絶え、やがて聞こえてくるのは粘着質な水音。 その頃には、もうあちこちから人々の悲鳴が聞こえてきていた。 鬼は、湧く。そこかしこの闇から。 そうして、逃げ惑う人々を次々と襲っていく。 見る見るうちに、地面が赤黒く穢れる。 「これは…」 呆然とは辺りを見回す。 これは、何。 暴走している? まさか……あの葉王が? 黒い意志に、呑み込まれようとしている? 「っ、きゃ」 「!」 髪を乱暴に引っ張られる。 布勢の声に後ろを振り向けば、鬼の真っ赤な爪が見えた。 ―――知らず、息が止まる。 「急ぎ急ぎて律令の如く為せ!」 だが鋭い声が響いたと思うと、髪を掴んでいた鬼がごきりと嫌な音を立てて吹き飛んだ。 「大丈夫か?」 布勢が、膝を着いたの顔を覗き込む。 がゆっくりと鬼の飛んでいった方へ目を向けると、そこには一陣の灰と、ぴんと背筋を伸ばして佇む紅い、紅い―――狼。 (オーバーソウル…) それが布勢の使役する式神のようだった。 「――――ありが、とう…」 「…いったい、何が起こっているんだ」 は唇を噛み締め、首を振った。 「たぶん…葉王」 「あいつが?」 「あの鬼が、どういうモノなのかは知らない。でも、そこに、葉王は…あの人は―――共感、してしまったんだわ」 何かの未練を、恨みを残して死んだ者へ。 ――――彼は、優しい人、だから。 共に過ごした時間は、たった数週間。 でも、それぐらいは―――もう、わかる。彼が優しい人だということぐらい。 そして、そこに付け込まれた。 今朝のあの甘い匂いも、きっとその兆候。 嫌な予感とは、このことだったのだ。 (どうして気付かなかったんだろう…!) おそらくそれほどまでに、葉王と同調していたのだ。 己の不甲斐なさに、身体が小さく震える。 そんな自分を、叱咤する。 へたり込んでいる暇はないのだ。 どうしたらいい。 考えて。 どうするべきか、考えなさい。 「―――…!」 ふと、先ほど鬼に食われた男がいた場所に、何かが転がっているのが見えた。 あれは――― 思うや否や、は駆け出していた。 「あ、おい!」 布勢の焦った声がそれを追いかける。 「お前、そんなもん持ってどうする気なんだよ!」 の手にあるもの―――弓を見ながら、布勢は怒鳴った。 だってわかっている。 幽世のモノに、現世の武器は利かない。同じ世界のもの―――たとえば、布勢の使役神のようにオーバーソウルでしか太刀打ちできない。 そして、はオーバーソウルの技術も、持ち霊も持っていない。 でも。 ―――だからこそ。 「は、のやり方でやってみるの」 「お前の?」 は弓を手に、頷いた。 視線の先は、松林の奥。 ―――夜よりも深く渦巻く闇。 ねっとりと嫌な風が付き纏う。 あの中心に、きっと葉王がいる。 一人で―――あそこに。 「もうあの鬼に、人格なんて存在しない。あるのはひたすら憎しみと恨みだけ」 「………あいつも、闇に…のまれたのか」 「そんなこと――させない。まだ間に合う筈よ」 絶対に、させない。 言い終えると、は一旦ふう、と息を吐いた。 そして、強い意志を宿した瞳できっと前を見据える。 「布勢」 「なんだ」 「お願いがあるの」 「言ってみろ」 「――――を、守って」 「…承知した」 布勢が強く頷くと同時に、いつの間に忍び寄ってきた鬼が、再び紅の狼によって切り裂かれた。 それを見届け、は静かに目を閉じる。 真っ暗な視界。 呼吸を整え―――そのまま、一気に集中した。 念じる。 強く、強く。 呼びかける。 祈るように。 たった一人でいる、彼に。 ――――― まるで意識が濁流に飲み込まれたよう。 黒と白と赤が交じり合った、生き物の内臓のように醜悪な空間。 その中を、葉王はゆらゆらと漂っている。 だがその意識でさえ、徐々にぼんやりと遠くなっていく。 闇の奥へ奥へと、強い力で引っ張られていく。 あなたも、わたしとおなじ (……そう、だろうか) おなじ、おなじ 憎いでしょう、苦しいでしょう 歌うように、どす黒く変色した女の声がする。 (……そう、かも、しれない) 周囲の空間が、まるで歓喜に打ち震えるようにぶるぶると蠕動した。 (ここで…死ぬのか) ぽつりと、そんなことを考える。 けれどそれ以上考える気力も、奪われて。 それでもいいとさえ、思った。 “葉王” そのとき不意に。 耳元で誰かが囁いた、気がした。 懐かしい声で。 いづこかの とほきいはくらに おはします かけまくもかしこき おほかみに もろもろの こひのみまつることあらば ここに あかききよきうた ささげまつりて まもりさきはひたまへと かしこみかしこみ も まをす ――…イィ―――ィィィィイイ… それは、静かな音だった。 (……見事) 布勢は密かに舌を巻いた。 構えをとく。 もう式神は必要なかった。 その証拠に、鬼達がまるで風に吹かれるように、次々と塵へ姿を変えていく。 それは、明らかに目の前の少女が発する音に因るものだった。 その手に握られているのは、あの弓。 小さな体躯には似合わぬ武器。 あの後は、聞き取れないほど低く何かを呟くと、その弓を力一杯はじいたのだ。 ―――しかし。 たった一度。 たった一度、弦を爪弾いただけだ。 その一鳴らしが、こんなにも大きく、こんなにも強く、周囲を強引にねじ伏せていく。 鎮めていく。 ―――イイィ…――…イ……ン… やがて不思議な音色は、かすかな余韻を残して、春の空へ消えていった。 あの吐き気がするような瘴気ですら、跡形も無い。 清浄な空気を吸い込みながら、布勢はゆっくりと辺りを見回す。 かろうじて生き残った人々が、ぼんやりと虚空を眺めていた。 ポツ 頬に雫があたる。 直後、ざあっと盛大な音を立て、雨が激しく降り始めた。 天からの水は瞬く間に足元を濡らし、穢れた地面を清めていく。 (……葉王も葉王だが) 不意にが弓を手放し、ばしゃばしゃと駆け出すのが見えた。 向かう先には、倒れている人影。 人並みはずれた力を持ち、同僚からは異形のものの様に畏れられている青年。 (あの娘も……また) 駆けていく小さな背を見ながら、布勢はただ息を吐いた。 頬が凍るように冷たい。 でも―――生きてる。 「葉王っ…」 がむしゃらにしがみ付くと、応えるように、ぐっと肩を掴まれた。大きな手で。 「葉―――」 震えてる……? 「葉王…?」 その顔を覗き込もうとして、やめる。 その代わりに、起こした上半身を、そっと支えて。 「―――――こわかった」 不意にぽつりと、葉王が呟いた。 それはひどく幼げで、頼りなげで。 「君のことが…わからないんだ。君だけじゃない、誰のことも」 は目をみはった。 目の前でうずくまるように、顔を伏せている彼が――― 一瞬だけ、幼い少年に見えて。 「こんなに不安になる。こんなに心許なくなる。周りの気持ちが見えなくなった、それだけで。あんなにも重い力だったのに。押しつぶされそうだったのに」 「………」 は、黙って葉王の言葉を聞いていた。 「きみのことが知りたい。知りたくて知りたくてたまらない。…なのに」 ぎゅうっと。 肩を掴む手に、力がこもる。 まるで握りつぶされそうだと思った。 それでも―――動こうとは思わなかった。 「君を…きみを、ぼくは、殺そうとしてしまった。意識はあった、確かにあったのに、止めることすら出来なかった。 ―――いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。君を失うのは嫌だ。君がいなくなるのが死ぬより恐ろしい。そうわかってたのに」 搾り出すように 吐き出すように 「…きみだけは、失いたくないのに」 肩の痛みは、既に麻痺していた。 はただぼんやりと葉王を見つめた。 ―――危ういひと。 まるで小さな子供のように、必死に求めようとする。 今ココで自分が振り払えば、そのぎりぎりの均衡はいとも容易く崩れてしまうのだろう。 彼は求めて、求めて、求める。 心の奥では拒絶を恐れながら、怯えながら、それでも。 ずるずると引きずり込まれそうになる程、強い想い。 でも、 (ひどく―――純粋な、ひと) こんなにも、 こんなにも、求めている。 求めてくれて、いる。 星の乙女などではなく―――ここにいる、ただの娘である自分を。自分だけを。 「………」 『さみしい』 『さみしい』 『さみしい』 誰かが呼んでいる。 淋しいと、わたしを呼んでいる。 (……ああ…そうか……) やっと、わかった。 自分が、誰に呼ばれていたのか。 目覚める前からずっと聞こえて、 目覚めたそのときも、ずっと、呼ばれていた。 「あなただったのね」 は、とうとうこらえきれずに手を伸ばした。 肩を掴む彼の掌を、そっと包む。 すると彼の手は肩から離れ、まるで縋り付くように、逆にぎゅっと握り締められた。 手を覆う力強い感触に。 嗚呼、呑み込まれそう。 うずくまり、まるで痛みを吐き出すように感情を吐露する彼の、大きな背中へ告げる。 「は、…」 言ってはだめ。 言ってはだめ。 星の乙女としての理性が警鐘を鳴らす。 運命は変えられない。 そうそれは、星の乙女として。 世界の終焉と再生を見届ける者として。 たとえどんなに足掻こうとも、最後にあるのは―――― わかっている。 …わかっている、筈だった。 けれどもは―――それを振り切った。 「葉王の傍に…いるわ」 ずっと 「ずっと、ずっと」 だから、もう、なかないで 何をしても叶えたい願いを 生まれて初めて、持った。 □■□ 「―――――…っ……!」 は跳ね起きた。 肩で大きく息をしながら、ゆっくりと周囲を見回す。 ここは…見覚えがある、ホテルの一室。 ハオが部屋に尋ねてきて でも、そのあと気を失って。 そして―――? 「わ、たし…?」 自分の両手を見つめて。 背中にじっとりと汗をかいているのが分かった。 わたし――――わたしは、。わたしの名前は、。 じゃあ、今のは何? 心臓がうるさいくらいに鳴っている。 認めたくない。認めたくない。 でも、 でも、今の夢は――― 「千年前の、わたし―――――……?」 呆然と呟く。 わたしはわたしの筈なのに、 さっきのヴィジョンでは、まるで別人のようだった。 そして。 『』 夢の中で、あんなにも優しく呼んでいたあの青年は、誰―――? 葉王 ハオ 音が同じ二人。 信じたくない。 信じたくなどなかった。 けれど、 こころが、叫んでいる。 葉王は―――――ハオだと。 千年という途方もない時間の壁すら越え、意識の奥の奥で、本能がそう告げている。 だけど、それなら 「……うそッ…」 嘘だ 嘘だ そんなの だってわたしが――― 千年前のわたしが、あのひとに惹かれていたなんて わたしの好きな人が あの、ハオだったなんて 「そんなの、嘘っ……ッ…」 は自分の肩をただただ抱きしめた。 |